三題噺[自宅][電波][隷属関係]

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 突然、脳が言葉を認識した。
 自分に語りかけてくる声はずっと聞こえていた筈なのに、今まで何を聞いていたのかを思い出せない。しかしそれを考えるのも億劫で、ただ次の言葉を待っている。

 ぱん、と手が打ち鳴らされる音がした。



 心理学の講義は退屈だ。尤も、行動主義心理学と銘打たれたその講義において大半の学生が顔を伏せて熟睡しているのは、講義内容よりも担当講師のゆったりとした語り口調に因るところが大きいのだが。
 それにしてもこの心理学という学問。人の中にあるあやふやなものを類型化したり、そもそも心という物を否定してしまったりと、その名前の割にえらく人間味に欠けている気がしてならなかった。
 人の心や行動なんて簡単にどうこう出来るものでもないだろう、とおおよそこの講義に向かない考え方を持つ俺がこの講義を受講している理由といえば『単位が取りやすい』という大学生らしい理由、そういう『建前』の他にもう一つある。
 その最大の理由とは、俺の横でふんふん、という擬音がぴったりな様子で頷きながら講義を聞いている彼女である。女目当てとは我ながら情けないが、これはこれで学生らしい理由である、などと自分に言い聞かせる。

 彼女とは一年前、学部のゼミで出会った。黒髪が綺麗で大人しそうな美人、という第一印象だった。しかし。
 私は先生のゼミを受ける為にこの大学を受験しました――開口一番担当の教授の著書を並べ立て、いかに自分が感銘を受け、いかに今の自分を形成するに至ったかという、自己紹介なんだかごますりなんだか新刊帯の推薦文なんだか分からない演説が始まった頃には、その美貌に集まる熱視線などほぼ消え去っていた。
 周囲の空気が凍り付いても彼女の自己紹介もどきは勢いを弱めず、催眠術だの深層心理だの、やたらとオカルトじみた話に飛び火し、それは困った教授に制止されるまで続いた。
 その当然の帰結として腫れ物扱いをされるようになった彼女に、しかし俺は積極的に話しかけた。周囲から避けられる彼女に同情を感じた訳でもなく、変人を弄って楽しむ趣味もない。しかし、彼女が好きな物を語る時の澄んだ瞳に、彼女の動作に少し遅れて揺れる黒髪に、俺は目を奪われてしまっていたのだ。早い話が、一目惚れである。
 彼女とは対照的に、鉛筆を転がして所属ゼミを決めたような俺だ。悪い事は言わないからあの電波女だけはやめておけ、と周囲に止められもした。しかし恋は盲目、いつの時代も男は美人には弱いものなのだ。

 彼女はといえば、やたらと付き纏っては絡んでくる、しかも話の合わない俺を最初こそ煙たがっていたが、普通なら引いてしまうような、どんなにディープなオタク話をしてもにこにこと話を聞く俺に根負けしたのか、次第に態度を軟化させていった。
 正直なところ、彼女が熱心に学んでいるオカルト――少なくとも俺にはそう聞こえた――を聞いてもさっぱり理解できないが、一見すれば冷徹な印象さえ受ける彼女が目をきらきら輝かせて語る様を見ていると、どうしても頬が緩んでしまうのだ。彼女の方もそれは自覚しているようで、話に熱が入りすぎた時など、はっとして頬を赤らめる。超かわいい。
 こんな調子で他の人とも接すれば避けられる事もなかろうに、とは思うが、人付き合いに消極的な彼女のこと、
「その必要を感じません」
 その一言に切り捨てる。俺としても、コロコロと変わる彼女の表情を独り占めできる訳で、そう悪くはない。
 そうやって彼女の尻を追いかけ続けてはや一年。二人を知る友人曰く『ついてきちゃった捨て犬と飼い主』。俺と彼女はすっかりセット扱いを受けている。カップル扱いではない所に寂しさを感じなくもない。



「いい加減、貴方も認めるべきです」
 講義が終わり、いつものように学食で彼女の顔を眺めていると、唐突に言われた。
「うん、そろそろ付き合っちゃう?」
「ち、違います!だから、そういう事を軽々しく言わないで下さい」
 相変わらず外見に似合わずすぐ動揺する奴である。軽々しくではないんだけどなー、などとぼやいていると、咳払いをして仕切りなおした彼女が続けた。
「催眠はオカルトなどではありません」
 あーそれかー、と生返事をする。
 この一年、彼女の話を散々聞き続けてきた俺だが、そういった話を未だにどこか信じられずにいるのだ。それでもこうして交流を続けている辺り、お互い根気強いと言えなくもない。
「別に否定はしないんだけどさ、催眠術ってあれでしょ?椅子に座ってたらガクガク揺れだしたり、うーうー言いながらハイハイ始めたりとか」
 主にテレビで得た知識だ。凄い凄いとアピールしているつもりが、凄すぎて逆に胡散臭くなっている気がしてならない。
「そっ、それは手品師まがいの輩が広めた風評です!」
 身を乗り出して必死に説明しようとする彼女。俺が催眠うんぬんに異議を申し立てると、いつも身振り手振りを交えて熱弁を始めるのだ。もしかすると俺は、この反応が見たいがために懐疑的な態度を取り続けているのかもしれない。そう考えると我ながら意地が悪い。
「本来催眠とはお互いの信頼関係の上に成り立っていてですね、つまり本人の意に反することを強要するものではなく」
 うんうん、といつものように微笑みながら彼女を愛でていた俺だが、ふと思いついた事を口にしてみる。
「それってつまり、君と俺みたいな関係の事だよね」
 ぐっ、と言葉に詰まってしまう彼女。本人は認めてくれないだろうが、俺と彼女の間にはある種の信頼関係が間違いなく築かれている。
 それはつまり、『俺は彼女の言う事ならなんでもにこにこ言う事を聞く』という関係だ。何だこの関係。
「ほら、俺は君の言う事なら大抵受け入れるし、惚れてるし。逆に君は相手の顔色窺ったりする必要もなく色々話せるし。惚れてるし」
「その言い方だと私が貴方に惚れているように聞こえるので訂正してください」
「またまたー」
「な、何がですか!」
 相変わらず良い反応を返してくれる。この(一方的な)阿吽の呼吸を信頼と呼ばずなんと呼ぶというのか。
「ああでも。そう考えると催眠とかかけるまでもないよね。君が言うなら俺三回まわってワンとか余裕だし。もはや犬だし」
「じゃあ遠吠えでもしてればいいんじゃないですか」
「アオーン!!」
「本当にやらないでください!!」
 にわかに学食中の注目を集めたものの、周囲は『またか』とばかりに視線を外す。大学公認カップルの気分だ。悪くない。

「でも、正直なところ興味はあります」
「試しに付き合っちゃうか」
「貴方が一体何を拒否するのか、です」
 彼女は華麗にスルー、したつもりだろうが、視線を外してむすっとしているのでバレバレである。愛いやつめ。
「繰り返しますが、人が催眠状態になったところで意に反する事を強要する事はできません」
 それは何度も聞いた。だが考えれば考えるほど、彼女の言う事に俺が従わない、なんて状況は想像できない。
「裏を返せば、催眠に入ってもなお拒否するとすれば、それはその人の正直な反応であると考えます」
「それは」
 少し聞き捨てならない。
「俺、別に普段から無理して聞いてる訳じゃないよ?」
 俺が実は嫌なのに我慢をしていると思われているのなら、甚だ心外である。俺は俺自身の自由意志で、それはもう大きな喜びを伴って言いなりになっているのだ。飼い犬の誹りは喜んで受ける。
「い、いえそうではなくて、私が貴方に言った事が無い事で、その」
 何やらもごもごと口ごもる。頻繁に動揺こそすれ、論理的な話し方を好む彼女にしては珍しく要領を得ない。
「だから、本当にその、好きなのか、確かめごにょごにょ」
「大好きだよ!?」
「そ、そこは聞き逃す流れじゃないんですか!!」
 そう都合よくはいかない。
「誤解しないでください。貴方があまりにもしつこいから、からかっているのか頭がおかしいのか判断に困っているだけです」
 なんでその二択なのか。いや、後者かもしれない。
 しかし、なるほど。確かに関係を強引に押し進めてきた自覚はある。彼女を戸惑わせてしまっているのならそれは申し訳ない事である。しかしそれを判断するための手段が催眠術とは、彼女らしいではないか。
「俺は構わないっていうかむしろウェルカムだよ?さあ五円玉はどこかな?」
「誰が今やると言いましたか。あとそんなもの使いません」
 両手を拡げて立ち上がる俺に冷たい視線が飛んでくる。なんだ使わないのか。
「この後は講義がありませんでしたね?」
 聞くまでもない。俺の時間割は彼女とぴったり同じである。最初の頃は割と本気で気持ち悪がられたのも良い思い出だ。
「場所は、そうですね。あなたの部屋が良いと思います」
「!?」
 大胆な娘!そんなふしだらな娘に育てた覚えはありませんありがとう!
「……あっ、ちがっ、ただ単に一番リラックスできる場所というだけで他意は!」
 非常に残念ながら本当に他意は無かったようで、えらく遅れて慌てだす彼女。
「他意は無い……そう、タイはないよね……ぐすっ」
「ああもう!」



「じゃあ、いいですか?あなたは何も考えなくて良いです。私の言葉をただ聞き流して頂ければ」
 学校からそのまま俺の借りているアパートに移動して数秒。男の人の部屋にふたりきり……みたいな戸惑いを微塵も感じさせず、事務的に告げられた。他意はなかった。
 彼女の解説によれば、催眠をかけられる側はただひたすらに受け身で良いということだ。催眠にかかってもかからなくてもどちらでも良い、くらいの気持ちでいるのがコツだとか。しかし、しかしだ。
「君の言葉を聞き流すとかいきなり難易度高すぎる!」
 彼女の声なら、雑音にまみれたスクランブル交差点のど真ん中でも聞き取る自信がある。そんな彼女の言葉を聞き流すなんてとんでもない。それこそ飼い主に呼ばれた忠犬のように身体が反応してしまうのだ。
「いいから言うとおりにしなさい」
「ハイ」
 身体が反応してしまうのだ。

「ではベッドに横になってください」
「……やさしくしてね?」
「いいから」
 何か彼女が冷たい。いつも冷たいけど今日は五割増しでかわいい。まちがえた。
「身体の力を抜いて。目は閉じていても開けていても構いません」
 とりあえず言われるがままに全身の筋肉を弛緩させる。顔も緩んで酷い事になっていそうだが、いつもの事なので気にはしない。
「私が貴方に質問をすることもありますが、答えても良いですし、答えなくても構いません」
「答えるに決まってるよね!」
 もちろん即答である。だが、彼女は普段と違って声のトーンを変えることなく続ける。
「眠くなってきたら、眠ってしまってもいいですからね」
 おや。少し調子が狂う。
「では、深呼吸をしましょう。私がみっつ数え上げていったら、それに合わせて息を吸いましょう」
「私はみっつ数えたら、はい、と言います。それを聞いたら、ゆっくりと息を吐いてください」
 ああ、心地良い。
 ただただ彼女の言葉、声を聞くというのを一年近く続けてきたけれど、やはり俺には聞き手が性に合っているのかもしれない。電波だオカルトマニアだと変人扱いを受けている彼女だが、それを言うならば、そんな電波を浴び続ける事を心から望んでいる俺の方こそまさしく変人じみているだろうに。
 なんだ、やっぱりお似合いじゃないか。

 いち

 に

 さん

 はい



「……ます。それでは、始めましょう」
 突然、脳が言葉を認識した。
 自分に語りかけてくる声はずっと聞こえていた筈なのに、今まで何を聞いていたのかを思い出せない。しかしそれを考えるのも億劫で、ただ次の言葉を待っている。

「いち、血液が、心臓から全身へと行き渡る。身体中へと浸透してゆく」
 じんわりとした感触。何も無い暗闇に、徐々に回路が生成されていく感覚。
「に、指先に、ゆっくりと力が戻ってくる。重かった手足が徐々に軽くなってゆく」
 痺れが取れるような刺激。手足を覆っていた薄い殻をパリパリと破る。
「さん、手足の指を握ったり、開いたりすると、だんだんと目が覚めてくる」
 どこにも無かった意識が、手足の動きに応じて帰ってくる。
「よん、意識が覚醒する。頭の中に心地よい風が吹く」
 薄暗い部屋が見えてくる。しかし、視線は何処に留まることもなく漂っている。
「ご、手が温かい」
 両手が、外からではなく、身体の内側から熱を帯びてくる。
「ろく、足が温かい」
 指先から、膝から、腰から。しだいに身体を包み込む温かさ。
「なな、頬が涼しい」
 爽やかな気分。不安はどこかへ行ってしまった。
「はち、さあ、そろそろ目を覚ましましょう」
 体の中に、活力が満ちてくる。
「きゅう、清々しい、目覚めの時です」
 水面は近い。浮上し、息を吸い込む瞬間を心待ちにしている。

「じゅう」
 ぱん、と手が打ち鳴らされる音がした。

 意識は明瞭になり、身体はとても軽く感じられた。周囲を見回すと、見覚えのある家具が並んでいる。そうだ、ここは俺の部屋だ。
「おはようございます。如何でしたか?」
 淡々と問う彼女の顔を見る。一瞬、何故ここに彼女が居るのかを考えてしまう。自分がぼうっと間抜け面を浮かべているのに気がつき、慌てて顔を引き締める。
「これが暗示の力です。今の今まで、貴方は私の言葉に無意識のまま従っていました」
 言われて、俺が今こうしてアパートの自室で横になり、彼女が傍にいる理由を思い出した。
「あー、うん。正直何がなんだか分からないけど確かに、これはすごいな」
 経緯を思い出すにつれて、ばつが悪いような、しかし心躍るような、妙な気持ちが広がってくる。真剣な目でこちらを見つめる彼女の視線から、つい目を逸らしながら言った。これは、してやられた。

 一方の彼女は俺の言葉に表情を緩ませ、満足げに頷いている。
「分かって頂けて幸いです。これはやらせでもオカルトでもない、れっきとした『技術』ですから」
 ふふん、とでも言いたげに自信満々に胸を張る彼女。かわいい。
 俺は身体を起こしながらぼんやりとその様子を眺めていたが、ふと気になる事に思い当たった。
「そうだ。結局、俺って君の言葉に逆らったの?覚えてるような覚えてないような妙な感覚なんだけど」
 記憶が曖昧である事がこんなに不安だとは知らなかった。思い出そうとすれば、ベッドに横になってから今までの状況は思い出せる。しかし、その状況下で彼女とどんなやり取りをしたのかは霧がかかったように見えてこないのだ。
「ええ、ふふっ。見事に断られましたよ」
「ば、ばんなそかな!?」
 今の俺のアイデンティティー、そのすべてを否定されたような気分である。俺が、彼女に、逆らったなんて!
「ちょっと待ってくれ、いい加減な事を言うものじゃない!言いようによっては訴訟も辞さないからな!」
「言いなりなんだか強気なんだかどっちですか貴方は……」
 そうは言うがこちらとしては、自己の尊厳がかかっているのだ。尊厳を捨てて従うことが尊厳とかちょっとミステリアス。
「じゃあ、ヒントです。『したいけどしたくない』だそうですよ」
「夢だけど、夢じゃなかった……?」
「ああはい、もうそれでいいんじゃないですか?」
 ついいつもの癖で茶化してしまった。だが彼女は一瞬だけ冷めた表情になったものの、すぐにまた笑顔に戻る。そういえば、『断られた』という割に彼女は何故こうも機嫌が良いのだろうか。
「分かりません教えてくださいなんでもしますから!」
「目が覚めたら一気に犬に戻りましたね……」
 催眠が解けたら犬になる人間とは一体。
「仕方ありませんね。貴方が断ったのは、ですね」
 ぴっ、と人差し指を自分の目の前に立てて顔を近づけてくる彼女。先ほどからは一転、その端正な顔がやたらとシリアスな表情をしているので、こちらも弥が上にも緊張してきた。この俺が一体何を拒否したというのか。ごくりと唾を飲む音がやけに大きく聞こえる。
「やっぱり、秘密です」
 彼女は花が咲いたような笑顔を作りながら言った。俺は呆けた顔でそれを見つめ返す。上機嫌で電気のスイッチを探る彼女。全くもって、何がなんだか分からない。分からないのだが、ちょっとした満足感もある。彼女がこんなにも嬉しそうなら、分からないままでも良いかもしれない。
 人から白い目で見られようと、彼女の話の意味がさっぱり分からなくとも。幸せそうな彼女を見ているのは、幸せなのだ。
 ああ、とんだ電波カップルだな、などと。しみじみと思うのであった。


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