三題噺[自宅][電波][隷属関係]
率直に言って、私はこの人に勝てる気がしません。
幼少期に読んだ怪しい本のせいで、義務教育を終え大学生になっても尚、私の情熱は催眠だとか深層心理だとか、一般的にすんなりとは受け入れがたい分野に注がれていました。これらの言葉が怪しいイメージを想起させる事も、それについておおっぴらに語ると周りの人が良い気持ちがしない事も、これまでの学生生活の中で身をもって学んできました。
だからこそ私は、あえて人を遠ざけるような言動を、振る舞いを、初対面の相手に対してぶつけるのです。それ以降、お互い関わり合いにならない為にも。
でも、彼は他の人とは少し、いえ、ずいぶんと違っていました。私の奇天烈な言動を見てもなお、うんざりするほどしつこく付きまとってくるのです。
これでも私だって年頃の娘ですから、最初のうちは気味が悪いとすら感じていました。この人は一体何が目的なのだろう、こんなに好意をぶつけてくる裏には何があるのだろうと。でも、付き合いが長くなればなるほど、彼の好意に裏など何もないということが、ひしひしと感じられるようになるばかりです。
ああ、この人には、本当に勝てる気がしない。
「俺は構わないっていうかむしろウェルカムだよ?さあ五円玉はどこかな?」
「誰が今やると言いましたか。あとそんなもの使いません」
相変わらず内心に忠実な反応をする彼を冷たくあしらうふりをしながらも、私は緊張で頭がどうにかなってしまいそうでした。いつも通り付きまとってくる彼と、いつも通りのやり取りをしていたはずなのに。どうしてこうなってしまったのでしょう。
無意識下に落ちた彼が私を拒絶したらどうしよう。そもそも催眠を受け入れて貰えなかったら?上手く出来なかったら格好悪いのに。
でも私はそんな事をぐるぐると考えながらも、期待に似た高揚感もまた感じていました。
普段の彼の言葉に嘘が無い事は分かっていても、それでも、やはり彼のひたすらに真っ直ぐな言葉には戸惑う事も多いのです。彼の素直な気持ちを、誰に意識することも無い言葉で聞くことが出来れば。そうすれば、いつまで経っても素直になれない私自身も、変われるような気がしていました。
「この後は講義がありませんでしたね?」
平静を装うために質問などしてしまって、すぐに後悔して、しかしすぐに安堵しました。今更そんな事を聞くのかと怒られてしまうのでは、と思い怯えましたが、彼は全く意に介していない様子だったからです。外面を取り繕うのが下手な私は、彼のこういう良い意味での能天気さにいつも救われているのです。
「場所は、そうですね。あなたの部屋が良いと思います」
催眠の成功率を上げる為には、対象が最もリラックスできる場所で行うのが良いとされています。彼は一人暮らしだそうですから、やはり自室で行うのが効率が良いでしょう。
しかし、彼は珍しいことに激しく動揺しています。やはり年頃の男性には、隠しておきたい物があるということでしょうか。
と、そこまで考えて、私は自分の放った言葉の持つ意味に今更ながら気がつきました。年頃の、男性なのです。
「……あっ、ちがっ、ただ単に一番リラックスできる場所というだけで他意は!」
慌てて取り繕いますが、一度意識してしまったものはもうどうしようもありません。どうしよう。今から?本当に行くの?
むしろいつものようにからかって流してほしい、そう思いながら彼の反応を窺います。
「他意は無い……そう、タイはないよね……ぐすっ」
からかうどころか、涙ぐんでいました。ああ、どうしてこういう時だけ言葉通りに素直に信じるんですか。お互い一度は意識してしまったのだから、もうちょっと空気を読んで欲しい、などとわがままにも程があることを考えてしまいます。
「ああもう!」
どうして私はこう、下手なのでしょう。
学校から彼の住むアパートまでの道のりは、まさに地獄でした。彼が色々と会話を振ってくれていたのに、右から左へといった具合です。でも、本当の地獄は――至極当然のことですが――部屋に入ってからだったのです。
男の人の部屋にふたりきり……。こんな状況は生まれて初めてです。ましてや、相手は日ごろから憎からず思っている相手。もう感情が振り切れてしまって、自分の顔から表情が失われていくのを感じていました。
「じゃあ、いいですか?あなたは何も考えなくて良いです。私の言葉をただ聞き流して頂ければ」
とにかく何か喋らなければ。そんな思いに突き動かされ、彼の部屋に入るなり講釈を垂れ流してしまいます。
「君の言葉を聞き流すとかいきなり難易度高すぎる!」
殆ど意識せずに色々と喋っていると、彼が頭を抱えていました。ああ、嬉しい言葉だけれど、素直に返すことは勿論、いつものように本心を隠して反応する事すら今はできそうにありません。
「いいから言うとおりにしなさい」
気がついたら命令していました。もう、自分を殴り倒してやりたい。
「ではベッドに横になってください」
「……やさしくしてね?」
「いいから」
言動の全てから余裕が失われた私を、しかし彼はいつものようににこにこと見つめてくれます。彼はこんな私にも呆れたりすることなく、すっかり私の言葉を受け入れる心構えをしてくれているようです。そろそろ私も、切り替えないと。
「身体の力を抜いて。目は閉じていても開けていても構いません」
今まで学んできた言葉を、自分に言い聞かせるように、ゆっくりと始めます。
「私が貴方に質問をすることもありますが、答えても良いですし、答えなくても構いません」
続けるうちに、調子が戻ってきました。そう、ずっと勉強してきたのですから。
「答えるに決まってるよね!」
彼もいつもの調子です。私も、続けます。
「眠くなってきたら、眠ってしまってもいいですからね」
相手を信頼して、言葉を投げかけます。彼なら私の言葉を受け取ってくれると信じて。
「では、深呼吸をしましょう。私がみっつ数え上げていったら、それに合わせて息を吸いましょう」
「私はみっつ数えたら、はい、と言います。それを聞いたら、ゆっくりと息を吐いてください」
ああ、心地良い。
自分の行いの報いとはいえ、今まで友達のひとりも碌に作れたことのない私にとって、初めての親しい相手。自分の言葉を受け入れてくれるのが、こんなにも安心できる事だなんて。周囲から変人扱いを受けている私に、こんなにも良い人は勿体無い、そう思わずにはいられません。
ああ、でも。私は彼から離れられそうにない。
いち
に
さん
はい
暗示はつつがなく進行しました。それもこれも、私の言葉に全てを委ねてくれる彼のおかげです。催眠における暗示というのは、一般に広まっているイメージに反して、対象の拒絶によっていともたやすく崩れてしまうものなのです。
私は当たり障りのない質問を二、三投げかけ、彼の様子を確かめます。催眠状態では受け答えが出来ない、あるいは要領を得ない答えになる場合も多いのですが、彼はある程度はっきりと答えてくれています。
そして、ここからが本番でした。
「あ、あなたは」
普段あれだけ聞かされていても、やはり緊張してしまいます。質問の内容が彼の意に沿わないものであれば、そうでなくとも、私が不自然な緊張を見せれば、彼の催眠は解けてしまいます。意を決して、続けます。
「あなたは……私の事をどう思っていますか?」
「すき」
即答でした。
顔が猛烈に熱くなるのを感じます。普通は、こんな質問をされた時点で目を覚ますのに。鼓動がどんどん早くなって、なんだかもう訳が分かりません。
こんな状態では、続けられない。早く終わらせてしまおう。そう自分に言い聞かせている筈なのに、私の言葉は止まってくれません。
「そ、それでは」
ああ、一体私は何を聞こうとしているのか。
「私と、その。キ、キスをしたいと、思います、か?」
本当に、本当に、私は一体何を言っているのでしょう!こんな事を聞いて、嫌われない方がどうかしています!
でも、しかしです。聞いてしまったものはどうしようもありません。それに、答えが気にならないといえば嘘に、大嘘になります。恐る恐る彼の様子を窺っていると、先ほどの質問よりもずいぶんと時間を空けた後、答えが返ってきました。
「しないよ」
「……っ!」
思いもかけない答えに、私は固まってしまいました。
好きだけど、キスはしたくない。それはつまり、私が彼に対して抱いている感情とは別物の『好き』という事ではないのか。私は、ひとりで勝手に勘違いをして、舞い上がっていたのでしょうか。目の前が真っ暗になった気さえしました。
「それは、な、なぜですか?」
もう半ばやけくそになって続けてしまいます。往生際が悪いとは、こういう事を言うのでしょう。彼が私を信じて委ねてくれているのに、それにつけこむような真似をして。自己嫌悪で、死にたくなってきました。もう、終わらせなくてはならない。彼の答えを待たずに、催眠を解除する文言を頭に思い浮かべます。
「したいけど、したくない」
その思考を中断する、彼の答えが聞こえました。思わず、間髪を入れずに聞き返してしまいます。
「どういう、意味?」
「嫌がることはしたくないよ」
簡潔な、彼らしい答え。私は一瞬呆気に取られて、さらに失礼なことに、吹き出してしまいました。
ああ、本当に馬鹿な人です。私が嫌がると本気で思っているようです。こういうところだけ、変に空気を読もうとするから間違えるんですよ。
嫌がる訳、ないじゃないですか。
「私が十を数え終われば、貴方は爽やかな目覚めを迎えることができます」
舞い上がったり落ち込んだり、安心したり。忙しく動揺しっぱなしでしたが、そろそろ終わらせなくてはなりません。
「それでは、始めましょう」
彼の眉がぴくりと動きます。
自分の言葉にここまで全てを委ねてくれる、安らかな時間を惜しむ気持ちはありました。でも、大丈夫。催眠とか、暗示とか、そんなもの関係なく、彼が私を受け入れてくれるのは一緒の筈です。
「いち、血液が、心臓から全身へと行き渡る。身体中へと浸透してゆく」
最初に感じていた緊張なんて嘘のように、数え始めます。
「に、指先に、ゆっくりと力が戻ってくる。重かった手足が徐々に軽くなってゆく」
半分眠っているにも関わらずにこにこしている彼の顔を見ていると、こちらまで幸せな気持ちになってきました。
「さん、手足の指を握ったり、開いたりすると、だんだんと目が覚めてくる」
私の声に合わせて、彼の手足が僅かに動きます。
「よん、意識が覚醒する。頭の中に心地よい風が吹く」
彼の目が徐々に開いてきました。私もそろそろ自分の顔を引き締めなければなりません。
「ご、手が温かい」
それにしても彼の顔は緩みきっています。幸せの絶頂といった表情です。
「ろく、足が温かい」
大丈夫でしょうか。よだれがだだ漏れです。
「なな、頬が涼しい」
ああ、駄目です。この顔を見ていては、こちらの顔も引き締められない。
「はち、さあ、そろそろ目を覚ましましょう」
でも、私も切り替えましょう。
「きゅう、清々しい、目覚めの時です」
暗示なんて必要のない、彼との会話。もうすぐそこに。
「じゅう」
言い終わると同時に、ぱん、と手を打ち鳴らし、催眠の終了を知らせました。
彼はきょろきょろと周囲を見回しています。現実感を取り戻すのには、まだ少し時間がかかるようです。
「おはようございます。如何でしたか?」
待ちきれずに、彼に言葉をかけてしまいます。自分の顔が緩んでしまわないよう、気をつけながら。
「これが暗示の力です。今の今まで、貴方は私の言葉に無意識のまま従っていました」
彼はまだぼうっとしていますが、どんどん続けてしまいます。彼との会話を待ちきれない、私の口が勝手に動いているかのようです。
「あー、うん。正直何がなんだか分からないけど確かに、これはすごいな」
彼はばつが悪そうに目を逸らしながら言います。少し、勝った気分です。いつも目を逸らしてしまうのは私の方でしたから。
「分かって頂けて幸いです。これはやらせでもオカルトでもない、れっきとした『技術』ですから」
内心を悟られないよう、いつもの『電波』な振る舞いに見えるよう、でもやっぱり少し感情が漏れ出してしまいながら、彼に言います。私が本当に自慢したいのは、彼が先に目を逸らしたことなのですが、口には出しません。
彼はそんな私の様子をぼんやりと眺めていましたが、当初の目的、私はすっかり忘れていたそれに思い当たったようです。
「そうだ。結局、俺って君の言葉に逆らったの?覚えてるような覚えてないような感覚なんだけど」
催眠が深ければ深いほど、意識の深いところでやり取りが行われます。その時の記憶が曖昧な事に、彼は驚いている様子でした。でも私は、そこまで深いところに潜れたのは、彼が私をそれだけ信頼してくれていたからだという事を知っています。
「ええ、ふふっ。見事に断られましたよ」
「ば、ばんなそかな!?」
嬉しくなって、ちょっとからかうように言ってしまいました。また、ちょっと勝ち誇りたくなります。
「ちょっと待ってくれ、いい加減な事を言うものじゃない!言いようによっては訴訟も辞さないからな!」
「言いなりなんだか強気なんだかどっちですか貴方は……」
彼は納得がいかないようですが、せっかくの機会です。主導権を譲ってなんてあげません。
「じゃあ、ヒントです。『したいけどしたくない』だそうですよ」
「夢だけど、夢じゃなかった……?」
「ああはい、もうそれでいいんじゃないですか?」
いつもの調子で冷たくあしらってみますが、やはり顔はにやけてしまいます。普段とは違う、そんな私の様子に彼は困惑しているようです。
「分かりません教えてくださいなんでもしますから!」
「目が覚めたら一気に犬に戻りましたね……」
もっと困らせたくなってしまいました。いつもの私なら考えられないことです。
「仕方ありませんね。貴方が断ったのは、ですね」
ぴっ、と人差し指を自分の目の前に立てて、じりじりと顔を近づけてみます。普段は恥ずかしくてこんな事できませんが、彼の真剣な表情が面白くて、つい演技にも力が入ってしまいます。彼がごくりと唾を飲む音が、こちらにまで聞こえてきそうです。
「やっぱり、秘密です」
彼は呆けた顔で見つめ返してきました。でも、今日のことは、私だけの秘密なのです。
上機嫌で電気のスイッチを探しながら、考えます。いつか、この秘密を彼と共有できる日が来るだろうか。こんなにも私に良くしてくれている彼に、素直な気持ちを打ち明けられるだろうか。その前に愛想を尽かされてしまわないだろうか。
でも、この人なら。私が失敗ばかりしていても、照れ隠しに裏腹な態度を取ってしまっても。全てを見透かしてにこにこ待っていてくれる、そんな光景が目に浮かんでしまいます。
ああ、この人には、本当に勝てる気がしないな、などと。しみじみと思うのでした。